仕事を終えると、杉野マネージャーは呑みに誘ってくれた。
「腹減ったし、どっか行かないか?」
「はい。行きましょうか」
千奈津は先に帰っていて二人きりだった。上司の誘いだし警戒する必要もないだろうと、二つ返事をしてしまった。
連れてきてくれたのはホテルのバーだ。落ち着いた雰囲気で大人が来るところという感じだ。私はもういい年齢だけど精神年齢はまだまだ子供なのかもしれない。
カウンターに並んで座ると、とりあえずビールで乾杯しサンドイッチを摘む。
「うわ、これ美味しいですね」
「だろう? ここのサンドイッチは絶品で大好きなんだよね。可愛いなって思った子しか連れてこない隠れ家的な場所なんだ」
「そうなんですか」
モグモグと食べていると、プッて噴出される。何が面白かったのか理解できない私はキョトンとしていると、杉野マネージャーはじっと私を見つめる。
「あのさ、一応、口説いてんだけどなぁ」
「どなたを?」
またプッて笑って口元を抑えている。ゴツゴツした大人な男性の手が目に入って、セクシーだと思い顔が熱くなった。
「初瀬美羽を」
「は……い? わ……私……ですか?」
「しっかりしてそうなのに、ピュアで、男性経験が少なそうで。いいなーって思いはじめてるというか」
まさかのまさか。こんなに素敵な上司に口説かれるなんてありえない!からかっているのだと思って私はケラケラと笑い出した。
「冗談はよしてください」
杉野マネージャーは真剣な眼差しを向けてくる。
「実は付き合っている人がいるとか?」
「いえ」
「じゃあ、過去に何かあったとか?」
質問を重ねてくるなとは思ったけれど、アルコールも入っていたので私はスラスラと答えてしまう。
「過去に……ちょっと辛い恋愛をしてしまってから、恋ができない体質といいますか……」
言葉に詰まっていると杉野マネージャーが鋭い視線を送ってくる。
「まだ、そいつのこと好きだとか?」
まだ、大くんを好き――……?
好きという気持ちは冷凍したのだ。
だけど、何かのきっかけで溶けてしまったらどうしようと、ずっとずっと不安だった。
だからこそ、大くんの映っている番組や、雑誌から目を背けていたし、過去に愛していた人を応援しようなんて大きな心を私は持ち合わせていない。
記憶から消すことばかり考えて生きてきた。
「おーい、初瀬。大丈夫か? 意識が飛んでるぞ」
ぼんやりと考えてしまった私はいつの間にかフリーズしていた。杉野マネージャー私の前で手をひらひらと振っている。
「……申し訳ありません」
「図星だったのか?」
私は少しだけうなずいた。いつも素直に心を開かないのになぜ今日はこんなにも話ができてしまうのだろうか。自分でも不思議だ。
「へぇ。その人は今何してんの? 近況とか知ってるの?」
「きっと、元気に仕事をしていると思います」
「独身?」
「はい。でも、お付き合いしている人はいるみたいですね」
甘いカクテルを飲み干す。
大くんを簡単に忘れることができる薬が発売されていたら私は間違いなく飛びついて買うだろう。違う人と恋愛ができれば、この心の中にある重たい気持ちが少しは消えるかもしれない。
「そんなに忘れられないんだったら、もう一度告白してみたらどうなの? 相手も独身ならまだチャンスがあるんじゃないのか?」
「いいえ。もう、終っているんです。彼は、私を憎んでいるでしょうから……」
「そんなに嫌なことしちゃったんだ? 初瀬って以外に悪女?」
「……ハハハ」
これ以上重い話にはしたくなかったから、軽く笑って受け流す。
「ま、誰にでも過去はあるでしょ。過去があって今があるんだし。そんなに引きずることはないんじゃないのか?」
そうかもしれない。
もう、過去のことなんだし。気にし過ぎなのかな、私。
それでも何年も直接会ったことはないし、仕事だとは言えリアルの世界で彼の姿を見てしまったら私はいったいどうなってしまうのだろう。
その当日がやってくることが今から怖くてたまらなかった。
* * *十年前―――――土曜日の夜になると、私はそわそわしていた。彼は土曜日の夜にふらっと来ることが多かったのだ。そういえば、真里奈と大学の食堂でランチしていた時、こんなことを言われた。『はぁ? お兄ちゃん的な存在? ないない。それって、美羽の初恋なんじゃないの?』真里奈とは入学してから意気投合して、仲良くなった。ぼうっとしているタイプの私とは逆のタイプだけど、一緒にいて心地がいい。『どうして男性だからって恋愛に結びつけちゃうの? 真里奈を好きなように、紫藤さんのことも好きなの。お弁当作ってくれたり、一緒にDVD観たり』『……それ、おうちデートじゃん。で、手を出してこないの?』『まったく。だって、妹だと思っていると思うけど』『妹だなんてありえないよ』そんな会話を思い出しながら、テレビを見ているとチャイムが鳴った。心臓が大きく跳ねて待ち構えていたかのように急いで玄関まで行くと、紫藤さんが立っていた。「ただいま」「お帰りなさい」一緒に住んでいるわけでもないのに、紫藤さんはうちに来ると「ただいま」って言うのだ。ニッコリ笑って中へ入ってくると、鼻をくんくんさせる。「あの、ね。ホットケーキ作ったの。紫藤さんが来るかなって思って」料理ができない私のチャレンジだった。彼の喜ぶ顔が見たかったのだ。でもやっぱり少し焦げてしまったし私は料理が不得意だと実感していた。紫藤さんは私の目の前に立って優しい視線を向けてくる。手がゆっくりと伸びてきた。キス? ど、どうしよう……。心の準備ができてないと思って瞳を思いっきり瞑る。すると紫藤さんの手が頬にそっと触れた。「粉、ついてんぞ」「えっ?」一瞬でもキスをされてしまうかもしれないと思った私は恥ずかしくてたまらない。「随分急いで玄関に出てきてくれたみたいだけど、そんなにお兄ちゃんが来るのが楽しみだったか?」顔がくしゃりとするほど笑顔になって、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。「楽しみだったよ。だって、一緒にいると楽しいから……」「そっか。じゃあ、なるべく会いに来てやんないとな」「でも、仕事忙しいんでしょ?」「イベントとか、レコーディングとかね。でも、可愛い妹に会えないと元気でないし」ほら、やっぱり。紫藤さんは私を妹としか思ってない。男女の友情って成立するもんよ。「どれ、うわ、
「美味しい?」「あぁ、うまい。美羽が一生懸命作ってくれたんだからうまいに決まってるよ」キラキラと輝く笑顔を向けられると私の胃のあたりが熱くなった。この感情が何なのかわからない。一週間お互いに何をしていたか会話を重ねていた。あっという間にホットケーキは食べ終わった。「大学の友達に彼氏ができたんだって。今度紹介してくれるみたい。私にも男の子を紹介するって言われたんだけど、恋愛とかよくわからないんだ」紫藤さんは、あぐらをかいてつまらなさそうに話を聞いている。「あ、ごめんなさい。つまらない?」「んー。恋愛する気ないなら、男を紹介してもらうことないだろう。いいんじゃないの。好きだって思える人ができるまで恋だの、愛だの」「だよね……」「焦ることはないさ」大くんの言葉に妙に納得した。いつか私が本当に好きだと思える人ができたらその人と恋をすればいいのだ。「紫藤さんは、今日はどんな一日だった?」「結構忙しく過ごさせてもらっていたよ。新曲の準備やダンスレッスンを受けてたよ」「へぇー。新曲かぁ。芸能人みたいだね」「一応売れない芸能人。だけど、三人組で仲間がいるから頑張らないといけないんだ。俺らが、歌ったり踊ったりして、それを見た人が元気になってくれたら……最高に幸せじゃん」夢を語る人のキラキラした笑顔は大好き。夢を叶えてほしい。「きっと、紫藤さんなら夢、叶うよ。私、信じているから」「美羽が信じてくれるなら頑張れそうだわ、俺」ニッコリ笑ってうなずいた。私は紫藤さんの夢を応援しようと思う。今までにシングルCDが二枚出ていたけど購入した。残念ながらあまり売れてないみたい。申し訳ないけれどCOLORというグループの存在は知らなかった。「もし俺が売れたら、美羽の欲しい物をなんでも買ってやるよ。何がいい?」「んー。特に欲しい物はないかな」「欲がないのね、お前」気だるそうに笑った。テレビを見て同じツボで笑って、すごく楽しい。この時間が永遠に続けばいいと思ってしまう。「今日は泊まるわ」「うん!」紫藤さんは特別な存在だから泊まることが当たり前になってもまったく抵抗がない。女友達と同じような感覚なのだ。「あ、DVD借りてきたから一緒に見て?」今はレンタル屋さんに行かなくてもすぐにスマホで見られる時代だが、当時は借りてくることが当たり前だった。紫藤
*真里奈が彼氏を紹介してくれるとのことで大学が終わってから一緒にカフェに行くことになった。真里奈の恋人に会えるのが楽しみだったのもあるけど、ティラミスが美味しいと噂の店だったのでそれも楽しみだった。カフェに到着して注文して待っていると彼氏が到着する。「彼氏のコーくん。三歳年上なの。コーくん、友達の美羽」「はじめまして。真里奈の彼氏です」「はじめまして。美羽と申します」勝手にもっとチャラチャラした人とお付き合いしているのかと思ったけど、好青年でびっくり。爽やかなスマイルが眩しい。オレンジジュースをくるくるストローで回しながら、真里奈の話を聞いている。「出会いはどこだったの?」私が質問すると真里奈は笑顔で答えてくれる。「バイト先の先輩なんだけど、偶然高校が一緒だったの」「そうなんですね」二人の親密さが伝わってくる。いいな、恋とか愛とかって素敵に見える。憧れはあるけど私にはものすごく遠くにあるように感じていた「デートとかって、どんなことするの?」「えーっと。カラオケとか映画とか行くこともあるし、二人で家でゴロゴロしている時もあるしね」「うん」視線が絡み合う二人を見ると、胸がトクトクと音を立てた。甘い恋とかよく小説で見たりするけど、まさにこんな感じだろう。お互いを大事にして、痛みも喜びも共有して、愛を深めていく。二人で愛というものを育てていくものなのかもしれない「ね、コーくん。美羽の家に謎の男子が週一くらいで遊びに来るらしいんだけど、男としてどう思う?」「謎の男子? 美羽ちゃん、気をつけるんだぞ。いきなり襲われるってこともあるんだからな?」「男性ってそんなものなのでしょうか?」「もしかしたら美羽ちゃんのことが好きなのかもしれないけど……。告白とかされた?」「いえ、友達のようなお兄ちゃんのようなそんな感じです」コーくんは腕を組んで頭を捻っている。なかなか人には理解ができない関係なのかもしれない。「美羽は、初心過ぎんの。もう大学生なんだし、いろいろ経験しとかなきゃ。あ、コーくん。男の子紹介してあげて」「い、いいっ……。大丈夫だから」「知り合いで真面目でいいやつもいるし本当に誰かと付き合ってみたいなとか、まずは男お友達を作ってみたいっていうのがあったら気軽に言ってね」「ありがとうございます」その後、恋愛のことや
ファミレスでバイトを終えた夜、バイト仲間の小桃〈こもも〉さんに誘われて、カラオケに行くことになった。小桃さんはお金持ちらしくて、バイトなんかしなくてもいいのに、社会勉強をしたいから働いているらしい。いつもカラフルな服を着ていて独特なファッションセンスを持っている。「会員専用のカラオケなのよ」「ほう……すごい所に連れてきてくれてありがとうございます」連れてきてくれたのは見るからに高級そうなお店なので中に入るのを躊躇した。「いいえ。パパが接待とかで使うところなの。カラオケはここ以外知らないんだけど……いい?」「あ、でも……」「お金は気にしないで。おごるから、歌聞くの付き合って」「……はい。ではお言葉に甘えて」押しに弱い私。ちょっと遅い時間だったけど、付き合うことにした。可愛いけれどこの性格でちょっと金銭感覚がずれているから友達が少ないみたいだ。受付をしている時、ふっと横を見ると紫藤さんが綺麗な女性とCOLORのメンバーと一緒にいた。うちに来ている時よりもキリッとしたような印象だった。私の存在には気がついていないようだ。声をかけたいけれど、周りの人に変な目で見られたら嫌だし迷惑をかけるわけにもいかない。彼は芸能人なのだ。だから気づかないふりをしようと心に決めた。すると、紫藤さんは綺麗な女性の肩に手を回した。慌てて目をそらした。今のこのシーンを見ただけで心臓が切り裂かれたような痛みが胸を走る。紫藤さんにも恋人がいたんだ。いつからいたのだろう。あんな姿見たくない。今まで体験したことがない気持ちが沸き上がってきて気分が悪くなる。紺色の液体が血液を流れて、冷やっとして、体温が奪われていくような感覚だった。「どうしたの? 美羽ちゃーん?」「は、え、いえ……」小桃さんの声で紫藤さんがこちらを見た。遠くからだったけど、目が合った気がする。紫藤さんは、私の存在に気がついても美人な女性から手を離さない。私の目線を追った小桃さんが「あれ、どっかで見たことある……誰だっけ?」と抜けた声で聞いてくる。「ここ、芸能人とかもお忍びで来るんだよー。プライベートで来ているわけだし、恥ずかしいからサインくださいとか言っちゃ駄目よ。これが、セレブの世界なのよ。さ、歌おう」背中を押されて歩き出す。どんどんと紫藤さんの近くに向かっている。嫌だ、近く
部屋に入るとふたりではあまりにも広すぎる空間だった。パーティーでもできるのではないか。「じゃあ歌うから聞いててね」楽しそうに歌っている小桃さんを、ぼんやりと眺める。歌なんて耳に入ってこない。頭の中には紫藤さんの姿ばかり浮かんでいた。どうして、こんなに悲しい気持ちなのだろう。あんな綺麗な女性に勝てるわけはないし、落ち込んだって仕方がないのだ。そもそも私は紫藤さんのことを恋愛感情として見ていないはず。それなのになんでこんなに重たい気持ちになるのだろう。「ねぇ! ねぇってば! 美羽ちゃん、どうしちゃったのよ」「あ、ごめんなさい」小桃さんはつまらなさそうにソファーに深く座った。そして最新式の携帯電話で何か検索しているようだ。「思い出した! さっきのCOLORじゃない? 紫藤大樹、赤坂成人<あかさかなるひと>、黒柳<くろやなぎ>リュウジ。三人とも苗字に色が入ってるからってグループ名がCOLORなんだって。夜中の番組でやってた!」「はい、知ってます」「あら、もしかしてファンなの? そっかーじゃあサイン欲しいよねー。ごめん、ごめんっ。声をかけさせてあげればよかったね。でも暗黙の了解でここでそういうことをしちゃいけないってことになってるのよ」少しずつ少しずつ、COLORは知名度を上げてきている。「きっと売れるだろうね。イケメンだしダンスは上手い。それだけじゃないわ。特に紫藤って人は売れる素質を生まれ持った感じがある。けっこう、当たるのよ、私の勘」小桃さんはふたたび機嫌をよくした。本当に彼女の予想は当たりそうだ。わからないけれどそんな気がする。「あとは、楽曲に恵まれたらグーンと売れそう。ファンクラブの会長にでもなっておけば?」「ハハ、面白いね……それ」なんとか話を合わせて、頑張って笑顔を作る。小桃さんは曲を入れて歌いはじめた。その歌声を聞きながら、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろうかと考えていた。風邪でもひいたのかな。体の調子がおかしい。さっきまで元気でファミレスでバイトをしていたのに、何かが引き金になってこんな状態になったのかもしれない。
「今日は楽しかったね。ありがと」カラオケを終えて外に出ると、蒸し暑い夜だ。汗がじんわりと滲んでくる。もう深夜に近い。こんなに夜中まで遊んでいることを母に知られたら大激怒されるだろう。「またねー」小桃さんは、タクシーで帰っていく。そんなにお金がない私は、家までここから二駅だから歩いて行くことにした。携帯が鳴りバッグから取り出すと『紫藤大樹』の文字が浮かび上がっている。外灯があって明るいとはいえ夜だから、携帯の明かりはすごく光って見えた。……いや、紫藤さんの名前だから特別に見えたのかもしれない。なんとなく通話ボタンを押すのに躊躇する。先ほどの綺麗な女の人と一緒に居る光景を思い出して呼吸が苦しくなったのだ。動揺しているのを隠して話せるだろうか……。だけど、電話に出ないのもおかしいので冷静を装って通話を開始する。「もしもし」『美羽。今どこ?』「あーえっと……○○駅の近くです」『一人?』「はい」『こんな時間に危ないだろう。さっきの友達は帰ったのか?』「……だ、大丈夫ですよ。大人だし」まるで子供扱いされているようですごく嫌な気持ちになった。『まだまだ子供だろうが。迎えに行く。待ってろ』カラオケで私の存在に気がついていてくれたことは嬉しかったけど、一人の女性として見てほしい。たしかに、さっき紫藤さんの隣にいた女性は美しくて大人なオーラ全開だったけど。私だって大人だ。どうして紫藤さんの発する一言一言に、心がこんなに揺れるのだろう。「一人で帰れます。……一人で、帰りたい……」蚊が鳴くようなか細い声で言った。けれど、夜中に一人で歩くのは心細いし誰かにそばに居てほしいって思っているのが本心。だけど、素直になれなかった。『は? 何言ってんだよ。すぐ行けるから、○○駅の北口で待ってろ』電話が切れてしまった。その場から立ち去ってしまおうかと思ったけど、そんな勇気はなくて駅の北口の外で佇んでいた。最終電車がなくなった駅の周りは閑散としている。怖そうなお兄さんが歩いていたり、酔っ払ったおじさんがフラフラしていたり。昼間と違って夜は治安が悪くなっている気がした。こんなところを小娘が一人で歩いていたら危ないに決まっている。「美羽」すぐに目の前に現れてくれた紫藤さんの姿を見ると泣きそうになる。でも弱みを見せたくないのでなるべく平常心のような表情
「カラオケ、誰と行ってたの? あそこ、VIPばっかり来るところじゃん」振り返らずに話しかけてくる。「バイト先の知り合いと」「……ふーん。男も……、居たのか?」「いいえ」「そう」ポツリポツリと会話をするだけ。気まずい空気を作ったのは私なのだけど、いたたまれない気持ちになってくる。しばらく無言で私たちは歩いていた。「美羽は俺に質問しないのか?」「……特に質問は無いですけど、芸能人なんだなって思いました」「あっそう」だって、自分でもまだ心の中で整理できていないんだもの。このモヤモヤはどこからやってきて、何が原因で、どうすれば解決するのかわからない。また私たちは会話をせずに歩いていた。家の近くの路地に入ったら、ポツポツと外灯があるが暗い。やはりこの暗い中を一人で歩いてくるのは怖かったので一緒に帰ってきてくれてとてもありがたかった。でも綺麗な彼女がいる人に対して依存してはいけないと自分の心に蓋をする。「早く大人になれ、美羽」「大人です」俯いて歩いていた私は紫藤さんの胸に頭をコツンとぶつけて顔を上げる。至近距離で笑っている顔が外灯に照らされて見えて、ドキッと胸が鳴った。「ドジ」「……っ」「俺は、美羽が大人になるところを見届けるよ。それまで一緒にいる」「大人って何が大人なんですか?」紫藤さんは大人の男の人のような色っぽい笑顔を浮かべた。今までに私には見せてくれなかった瞳の色だ。「恋愛したら……かな」「そ、そんなの安易な考えだと思いますけど!」「シー。夜中だから小声でね、美羽」頭をポンポン撫でて笑っている。「恋ってさ、たぶん、すっげぇいいんじゃないか?」「だって……好きな人、できたことないって言ってましたよ、紫藤さん」「うーん。それが最近、できたっぽい」ピンときた。さっきの女の人だ。紫藤さんは、あの美人女性に恋をしてしまったのだろうか。「美羽は? まだ恋愛とかできそうじゃないのか? お兄ちゃんに言ってみろ」「……わからない……です」私は、紫藤さんにとっては妹のような存在だ。そんなの最初からわかっているのに、なんだか嫌な気持ちになる。「大人になるところを見届けるって。それって、いつかお別れしちゃうってことですか?」「美羽に好きな人ができたとする。で、彼氏ができたとする。そうしたら、彼氏は俺の存在が邪魔になる
紫藤さんは素敵な人だ。紫藤さんが恋をした相手もきっと素敵な女性なのだろう。先ほどカラオケでしか見てないけどとてもお似合いだった。二人が恋人になるのにそんなに時間はかからないはず。そうなれば私とはもう会ってもらえなくなってしまうのだ。想像するとあまりにも悲しくて寂しくて。今日はもう帰らないでと思ってしまった。「泊まりますか?」「……うん。もう、疲れちゃったし。寝たい」会えなくなる人なのに、家に泊めちゃうのは私の意志が弱いからなのだろうか。部屋に一緒に入ると、紫藤さんは欠伸をしてソファーに横になってしまった。そんな姿を私はただ見つめる。目を閉じるとまつ毛の長さがハッキリわかって、鼻は高くて唇は形がいい。お化粧したら女の子よりも、可愛いかもしれない。「シャワー借りようかな。汗でベトベト」本当に疲れた様子だが紫藤さんは起き上がる。「美羽も一緒に入ろうか?」「はい?」「嫌なの? 俺のことお兄ちゃんだと思っていたら、意識しないで普通に入れるんじゃない?」茶色の瞳でちょっと見つめてきて私の心を覗かれているような気がした。からかっているのだろう。クククと喉を震わせて笑っている。紫藤さんは異性なのだと、はじめて意識した気がする。目の前にいる人は男。もしかしたら急変して襲われてしまうかもしれない。はじめては痛いらしい。何を考えているの、私ったら。話が飛躍しすぎた。「どうしたの、美羽。怯えている?」紫藤さんが目の前にしゃがんで視線を合わせてくる。私は少し後ずさった。「怯えてなんか、ないです」「それでいいんだよ。男を警戒することも大事。ちょっと大人になったんじゃない?」「……っ」「だから、俺以外の男をここに入れちゃ駄目だぞ。危ないから」シャワー借りるねと言って、バスルームに消えてしまった。しばらくして、シャワーの流れる音が聞こえてくる。はじめては痛い。だから嫌なんじゃなくて……。恋の延長線上にそれがあってほしい。私……恋人が欲しいんだ。だからと言って誰でもいいわけじゃない。ちゃんと好きになった人と結ばれたい。胸に手を当てて大きく息を吸う。うまく、呼吸ができない。心と体の細胞が噛み合っていないような。苦しい――。ガチャっと音がして振り返ると上半身裸の紫藤さんが頭を拭きながら出てきた。引き締まった見事なボディーだ。腹筋が割
久実を愛しすぎて、彼女のウエディングドレス姿ばかり、想像する日々だ。世界一似合うと思う。純白もいいし、カラードレスも作りたい。もちろん結婚がゴールではないし結婚後の生活が大事になってくる。つらいことも楽しいことも人生には色々あると思うが彼女となら絶対に乗り越えて行ける自信があった。ただ……俺も黒柳も結婚をすると、COLORは解散する運命かもしれない。三人とも既婚者のアイドルなんてありえないよな。大事なCOLORだ。ずっと三人でやってきた。大樹だけ結婚をして幸せに過ごしているなんて不公平だと思う。あいつが辛い思いをしてきて今があるというのは十分に理解しているから、祝福はしているが、俺だって愛する人と幸せになりたい。グループの中で一人だけが結婚するというのはどうしても腑に落ちなかった。だから近いうちに事務所の社長には結婚したいということを伝えるつもりでいる。でもそうなるとやっぱり解散という文字が頭の中を支配していた。解散をしても、俺は久実を養う責任がある。仕事がなくなってしまったら俺は久実を守り抜くことができるのだろうか。不安もあるが、久実がそばにいてくれたら、どんな困難も乗り越えられると信じていたし、絶対に守っていくという決意もしている。
赤坂side音楽番組の収録を終えた。楽屋に戻ると、大樹は美羽さんに連絡をしている。「終わったよ。これから帰るから。体調はどうだ?」堂々と好きな人とやり取りできるのが、羨ましい。俺は、久美の親に結婚を反対されているっつーのに。腹立つ。会うことすら許してもらえない。大きなため息が出てしまう。私服に着替えながらも、久実のことを考える。久実を幸せにできる男は、俺だけだ。というか、どんなことがあっても離さない。俺は久美がいないと……もう、生きていけない。心から愛している。どんな若くて綺麗なアイドルなんかよりも、世界一、久実が好きだ。どうして、久実のご両親はこんなにも反対するのか。俺に大切な娘を預けるのは心もとないのだろうか。なんとしても、久実との交際や結婚を認めてほしい。一生、久実と生きていきたいと思っている。俺のこの真剣な気持ちが伝わればいいのに……。日曜日に実家まで押しかけるつもりでいた。 強制的に動かなければいけない時期に差し掛かってきている。 苛立ちを流し込むように、ペットボトルの水を一気飲みした。「ご機嫌斜め?」黒柳が顔を覗き込んでくる。「別に!」「スマイルだよ。笑わないと福は訪れないよ」「わかってる」クスクス笑って、黒柳は楽屋を出て行く。俺も帰ろう。「お疲れ」楽屋を出てエレベーターに乗る。セキュリティを超えて ドアを出るとタクシーで帰る。一人の女性をこんなにも愛してしまうなんて予想していなかった。自分の人生の物の見方や思考を変えてくれたのは、間違いなく久実だ。きっと彼女に出会っていなければ、ろくでもない人生を送っていたに違いない。
週末まで仕事をして、金曜日の夜になった。赤坂さんが日曜日に突撃すると言っていたけれど、本当なのだろうか。冗談で言っていると信じたいけれど、彼はまっすぐな性格をしているから、冗談じゃない気もする。でも本当に家に来てしまったら、修羅場になるのではないか。不安な気持ちのまま夕食を食べて、何気なくテレビを見ていると赤坂さんが画面に映し出された。その姿を見るだけで私の心臓は一気にドキドキし始める。すごくかっこいいし、早く会いたくなる。許されるなら同棲をし、今後して、家族になりたい。そんな感情がどんどんと溢れてくるのだ。私の感情を打ち消すかのように、お母さんはさり気なくチャンネルを変えた。「……お母さん」そんな意地悪しないでと心の中でつぶやく。お母さんは小さなため息をついた。そして私に視線を向けないまま口を開く。「忘れるなら早いほうがいいのよ。二番目に好きな人と結婚すると、幸せになるって言うでしょ?」私に言い聞かせるようなそれでいて独り言のような感じだった。「お母さんは、二番目に好きな人がお父さんだったの?」「……」ここほこっとわざとらしく咳をして話をはぐらかされてしまった。お母さんは立ち上がって台所へ行ってしまう。たとえ幸せになれなくても私は一番目に好きな人と結婚したい。反抗的な感情が胸の中を支配していた。
入浴をして自分の部屋に入ると、どっと疲れが出る。 両親は……どうしたら、赤坂さんとの交際や結婚を認めてくれるのかな。 考えてもいい案が浮かばない。 「はぁ……」 赤坂さんに会いたい。抱きしめてほしい。 スマホに着信があり確認すると、赤坂さんだ。 以心伝心みたいで嬉しい。私のスマホに彼の名前が表示されるだけで嫌なことが全部チャラになったような気がするのだ。 慌てて出る。 「もしもし」 『久実、許可は取れたか?』 「あ、うーん……」 『許してくれないか。こうなったら、行くしかないな』 「ちょっと、何を考えてるの?」 『俺は久実を愛してんの。今すぐにでも迎えに行きたい』 これって、プロポーズなのかな。ドキドキして、耳が熱くなる。 今までもプロポーズみたいなことは言ってくれたけど改めて言われると心臓がおかしな動きをする。 「私も、だよ」 赤坂さんを愛おしく思う。 『松葉杖取れたから』 「本当!よかったね!」 『ということで、次の日曜日に突撃するわ』 「はっ⁉︎」 『じゃあな。ちゃんと寝ろよ』 電話が切れてしまい、私は、唖然としていた。 突撃されたら、お父さんは、もっと怒るかもしれない。ど、どうしよう。 冗談なのか、本気なのかわからない。そこが赤坂さんらしいのだけど。 突撃するわ、とか言いつつ、本当に来ないだろうとどこかで思っていた。
一気に部屋の空気が悪くなる。お父さんは無言でグラスのお茶を飲んだ。お母さんは眉間にしわを寄せて小さなため息をつく。散々反対されていたから、いい反応をしてくれないというのは予想ついていた。でも、負ける訳にはいかない。「プロポーズされたのか?」お父さんがいつも以上に低い声で問いかけてくる。怖じけそうになるけれど、私は気持ちを落ち着けて普段話をするように言葉を発した。「まぁ、そんな感じ。私は、赤坂さんがいなきゃ生きていけないの。赤坂さんが挨拶をしたいと言っていたから、会ってもらえない……かな?」お父さんとお母さんが顔を見合わせている。「お願い……。私も大人になったの。だから認めて」箸を止めていたお父さんが食事を再開する。まるで私の話を無視しているかのようだやっぱり、赤坂さんとの結婚はハードルが高い。落ち込みながら、私も食べ物を口に運んだ。味がしない……。きっとショックすぎているからだ。「久実は、自分をわかっているようでわかっていない」お父さんは、厳しく告げる。「自分は、一番自分をわかっているよ」つい、言い返してしまう。お父さんが私をギロッと睨んだ。あまり言い合いをしたくない。関係がこじれたら、もっと話がややこしくなる。部屋の空気が重いまま食事を終えた。
仕事を終えて外に出ると、とっても寒くて、体を縮こませた。 年は明けているけど、春はまだ遠い気がする。春ってなかなか来ないんだよね。待ち遠しい。 電車に揺られて、自宅に帰る。この普通の日常が私にとってはありがたい。赤坂さんが助けてくれたからこそ、こうして生きていられる。 私は、ふとスマホのカレンダーを見た。 来月は美羽さんと紫藤さんの結婚パーティーがあるんだった。 こぢんまりとやると言っていたけど、その中に招待してもらえたので嬉しい。 美羽さんのこと、大好きだし。 赤ちゃん、順調に育っているのかな……。 過去にいろいろあったみたいだから今度こそは絶対に健康で生まれてきてほしいと私も陰ながら願っていた。「ただいま」 家に帰ると、お母さんが作ってくれた夕ご飯の美味しい匂いが漂っている。 「お帰り」 早く、赤坂さんとのことを言わなきゃと思うけど、緊張してしまう。 手を洗ってうがいをしていると、お父さんも珍しく早く帰ってきた。 両親が二人揃っているので、赤坂さんに会ってほしいというには、いいチャンスかもしれない。ダイニングテーブルについて、食事をはじめる。 今日は、お母さんお手製のオムライスとサラダとコーンスープが並んでいた。大好物ばかりなのに緊張して落ち着かない。 「今日は仕事どうだった?」 ……赤坂さんとのこと、言わなきゃ。言わなきゃ。言わなきゃ。 「久実!」 「あ、な、なに?」 お母さんの問いかけに驚いて顔を弾かれたように上げる。 「なんか、変よ」 「そ、そうかな……」 笑ってごまかすがお父さんも不思議そうに覗き込んでくる。これは、チャンスと受け止めるしかない。 「お父さん、お母さん。わ、私ね、赤坂さんと結婚したいの」
そんなことを考えながらスマホを眺めていると……「彼氏から?」同僚がニヤニヤしながら質問してくる。興味津々という感じだ。「まぁ、そんな感じです」私は曖昧な返事をした。人には言えない恋。「どんな人? 誰に似てるの?」身を乗り出し聞いてくる。赤坂さんは赤坂さんであり、他の人に似ているとかない。好きな人が芸能人だとこういう時に、答えに困ってしまう。「そうですね……。うーん……」彼のことを気軽に話せないのが、たまに苦しい。もし週刊誌に撮られてしまっては、赤坂さんだけではなく、COLORのメンバーを傷つけてしまう。そうなると大変だ。自分のせいで迷惑だけは、かけたくない。ちゃんと親の許可を得て結婚するまでは誰にも言えない。外で堂々と会うのも、本当に気をつけなきゃ。『足の怪我が治ってからにしよう』返事をすると、すぐに返事がきた。『すぐ治る。だから、スケジュール聞いておけ。命令』相変わらず、俺様なんだからと……思いつつ、私はキュンとしてしまう。俺様だけど、甘えん坊なところもあるから、私がしっかり支えなきゃ。でも、まずは、両親に報告するのが先だよね。早く一緒に住める日がくればいいな。愛している人とずっとそばにいたい。でも……やっぱり両親のことが不安でたまらなかった。
久実side年末年始をゆっくり休んで、仕事が始まり、そろそろ二週間になろうとしている。赤坂さんと心も体もつながり幸せな毎日で……なんだか夢みたい。夢でありませんようにと、毎日思いながら眠りにつく。私は、ずっと逃げていた。赤坂さんと交際することはいけないことだと思っていたから。けれど、美羽さんから勇気をもらったおかげで、気持ちを伝えられたのだ。お互いの気持ちがしっかりとわかったので、これからは二人で協力してさらに前進していこうと決意していた。今の私にできることは仕事を頑張ること。そして両親に結婚を認めてもらう。そんな気持ちで、今日も、元気いっぱい仕事をしている。パソコンに向かって書類を作りっているのに、ついつい私は赤坂さんのことを思い浮かべて、胸を熱くしていた。……会いたいな。昼休みになり会社近くのカフェで同僚とランチをしていると、赤坂さんからメールが届いた。『久実の両親に早く会いたいんだけど、スケジュール確認してくれたか?』赤坂さんはスネにヒビが入りまだ松葉杖をついて仕事をしている。もうすぐ杖を使わなくても、普通に歩けるようになるらしい。大変な怪我じゃなくてよかったけれど、また怪我をしないか心配になる。私の両親に挨拶をしたいと言われているが、なかなか両親に言い出せない。でも、一歩踏み出さなきゃ、赤坂さんとの未来は開けないのに。両親の反応が怖い。せっかく、ここまで頑張ったのだから勇気を出さないと、本当の幸せは手に入らないよね。
「赤坂さんのことが好きでも……両親の言うことを聞かなきゃって思って」「ってかさ、なんで早く言わなかったんだ?」苛立った口調に怖気づきそうだった。「考えて悩んで……私もそう思ったから。それに、これ以上迷惑をかけちゃいけないって思ったの」「迷惑だと? ふざけんじゃねぇぞ」乱暴に私を抱きしめた。赤坂さんの胸に閉じ込められる。かなり早い心臓の音が聞こえてきた。「俺のこと信じろって」「赤坂さん。ごめんね」「バカ」涙があふれ出し、私は赤坂さんにしがみついた。赤坂さんはもっと強く私を抱き止めてくれる。「でも、好きな気持ちには勝てなかったの」「………」体を起こしてキスをされた。すごく優しいキスに胸が疼く。私のボブに手を差し込んで熱いキスに変わっていく。舌が絡み合い、濡れた音が耳に届いた。唇が離れると赤坂さんは今までに見たことない瞳をしている。「久実、愛してる」「……私も、赤坂さんのことが好き」「俺もだ」「今まで本当にごめんなさい」「大好きっ、赤坂さん、大好き」「うん。俺も」私も赤坂さんのために自分のできる限り尽くしたいと思った。守ってもらうだけじゃなくて、守ってあげたい。頭を撫でられて心地よくなってくる。「両親に認めてもらえるように……頑張るから」赤坂さんはつぶやいた。だけど、すごく力強い言葉に聞こえた。「近いうちに会いに行きたい」「うん………」「やっぱりさ、思いをちゃんと伝えて理解してもらうしかないから」「そうだね……」「俺はどんなことがあっても久実を離さないから。覚えてろよ」頼もしい赤坂さんに一生着いて行く。私は赤坂さんしか、いないから。きっと、大丈夫。絶対に幸せになれると思う。私は赤坂さんのことが愛しくてたまらなくて、自分から愛を込めてキスをした。エンド